サバ缶とボッコちゃん

青魚と短編小説をこよなく愛するコピーライターです。 ブログタイトルは時々変わります。

死にかけ語の悩み

 

言葉は生き物です。

みたいなことをときどき耳にしますが、

ちかごろ気をつけなきゃ、と思っているのが「死語」。

言葉で新しいことを伝える仕事をしている以上、

このあたりに鈍感ではいられません。

 

死語という「単語」じゃなくても

世間での言葉の使い方は日々少しずつ変わっていて、

たとえば「ら」抜き言葉(見ることが可能、を

「見られる」ではなく「見れる」と表現する)や

「い」抜き言葉(「知っている」を「知ってる」と書く)など、

ささいな変化でも、どう選ぶかで文の印象は変わってきます。

 

コピーライターは国語の先生ではないので

文法的に正しい言葉だけを使うわけではありません。

時代やターゲットに刺さりそうな言葉なら取り入れるし、

言い回しが拙かったりややわかりにくいような言葉でも

ターゲットにしっくりくるなら材料にして、

新しく作ったりもします。

もちろん派手な流行語(…激おことかw)は廃れたらすぐわかるし

そうそうコピーに使わないのでいいのですが、

すっかり常用語に定着した(と思いこんで)使った言葉が

「もう死んでいた」ら…。

 

ターゲットに「しっくりくるはず」をミスっていたら、

コピーだけではなくて商品イメージまでがだいなしです。

誰も指摘はしてくれないので

(後日SNSでつぶやかれたりすることはあるかも。これまた怖い)、

迷ったときはすごく緊張します。

 

最近悩んだのは、次の言葉。

「超〇〇」

「抜群」

「ヒト(人、をあえてカタカナで書く)」

「女のコ(子、をあえてカタカナで書く)」

これら、まだ使っておかしくないだろうか。

みなさんはどう思われますか?

 

 

 

肉体の突然の消滅

 

私事ですが、

昨年晩夏に父を送り初盆に帰省しています。

だからというわけでもないのですが、

「死」についての軽佻浮薄な考察。

(宗教観、科学的知識皆無の感想文です

…無知無神経ご容赦ください)

 

心臓麻痺や事故、災害などでの突然死のまさか、について。

死者自身はどんな思いなのだろう。

 

以前、心筋梗塞で突然亡くなった先輩の葬儀でのこと。

棺にお花を入れようとした時の、棺の中の先輩の

はっきりくっきりとした「ここにいない」感。

それと同時に感じた、

棺上空3mくらい斎場天井あたりに漂う先輩の

「あ〜も〜オレ…」という困惑と、

「ここ(天井のとこ)にいるよ〜」と微弱に主張する気配。

これらはいまでも忘れられない。

 

突然死で肉体が消滅または機能を止めた時も、

長患いでの死や老衰死と同じく一律に

私たちはそれを「死」と呼ぶけれど、

突然機能が止まってしまった本人にとっては

覚悟も何もできていなくて、

それはもう驚愕の一大事なのではないか。

きっとその瞬間瞬速で魂が肉体を離れてしまって、

一生懸命に「ヤバイ!早く戻らないと!」と、

素潜りの不得意な人みたいに

腹筋(もうない)や背筋(これもない)をふんばって

下に戻ろうとしても、戻れない。というか、

戻るべき肉体がなくなってる場合さえある。

お〜いおれのカラダ〜!!って。

 

また、若くしていった友人の場合。

献杯した居酒屋でお猪口の水面がふと揺れてみたり、

当初たまに、ゆかりある公園の上空に気配がしたりなど。

彼は突然死ではなかったが、

こんなに早くこちらを去るのはさぞ無念だったと思う。

 

こんな風に肉体と魂を分けて考えるのは奇妙だろうか。

少し離れたところにいる人の後ろ姿を

黙って見つめていると、その人は振り向くだろう。

それをさせたのは「視線」というもので、

物理的なものではないし別に熱なども帯びていないけど

そこからは気配というか「気」のようなものが出ているはずで、

そのことをタマシイ、と読んでみたくなる。

肉体がなくなってもすぐ「気」はなくならないのでは?

とそんなことを信じてしまっている。 

いや決してオカルト好きというわけではありません。

 

などとここ数年思っていて、

その感じに「なるほど」とひとつの答えをくれたのが

山田洋次監督の「母と暮らせば」という映画だった。

(物語/長崎の原爆で死んだ息子が幽霊となって母と婚約者にずっとよりそうが、

いつしか時は流れて。吉永小百合二宮和也主演) http://hahatokuraseba.jp/

 

二宮和也演じる息子は、

原爆で肉体が瞬時に消滅したせいで最初は死んだ実感がなく、

現世を右往左往するものの、だんだんその状態に慣れて

ゆっくりと死者(こちらがそう呼ぶのだが)になっていき、

やがて完全にあちらの住人になる。 

そして、残してきた大好きな母にずっと寄り添いながら、

母がいく(あちらの世界からすると「来る」)のを迎える。

こんな風にあちらから「お迎えがくる」ならさみしくないな。

子孫はいないけど、先にいった誰かが

迎えにきてくれるなら安心、などと思って私は、

悲しい中になんだかほっこりした。

 

きっとこれは年を重ねるとより実感されていくのだろう。

「お迎えがくる」をずいぶん具体的にイメージして

納得してしまった映画だった。

 

だからといって、先輩や友人を失った悲しみが

消えることはないのだけれど。 

そしてこんなことを軽々しく書いているのを見て、

上にいる父が「あほうお前に何がわかる!」と

渋面を作っているのも感じるのだけれど。

 

 

日傘雨傘

 

日傘と雨傘の使用時の決定的違いに気づいたのですよ!

 

日傘は日光を避けるから、

太陽の方向に傾ける。

雨傘は雨を避けるから、

吹き降りの時は風上に傾ける。

 

つまり、かんかん照りで風が強い日に

陽ざしと風向きが反対だった場合、

日傘をさし続けるには風を切るというか

一本釣りする人のごとくかなり力がいる。

骨がおチョコになって!

カラダごと持って行かれる!

全員メリーポピンズになって!

夏空に舞い上がってしまう!

 

雨傘ではこういうことは決して起きません。

 

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カラダで生きてない

 

腱鞘炎になってしまった。 

 

原因といえば、

新しいPCのキーボードが合わないのと、

しばらく企画書などマウスを駆使する仕事が多くて

たまに手が攣っていたのを放置していたことによる。

  

1日おきにマッサージに通うだけでなく、

置き鍼とテーピングとアイシングの上からサポーターをしている。

心得のある知人にはヒーリングもしてもらった。

整骨院によると、ひどく痛くなってからだと治るのに時間がかかるので

痛み始めたらすぐ来てくださいとのことでした。みなさまに老婆心。) 

注射や手術は嫌だと言ったら、

これをしてひたすら休めるしかないそうです。

 

これまで自分の仕事には

目が大事!とサプリを飲んだり

脳が大事!と睡眠に気を使ったりしてきたが、

手指については全くケアしてこなかった。

いまや手首内側は1mmでも外に曲がると激痛が走り、

中指薬指もしなやかに屈伸できなくなっていて

(「バネ指」というそうで、高枝切りバサミを連想してしまう:)、

特にパワーポイントで文字の塊を移動したり

罫線をひっぱたりするのがツライ。

手はつくづく商売道具だなあと実感し、

いたわってこなかったことを反省しています。 

 

なのに、仕事はしかたがないとしても、

痛いくせに料理などする。花の植え替えなどする。

重いものを持つなと言われているのに、

スーパーで牛乳や料理酒や玉ねぎや塊肉などが

特売になっていると、つい手を出してしまう。

つまり「痛い!」というカラダの叫びよりも

「明日は定価かも」「これシチューにしたらうまいぞ」という

「思惑」が勝ってしまう。

これはどうしたことか。

 

ダイエットの本などによく

「いま本当にお腹がすいていますか?

食べる前にカラダの本音に耳を傾けましょう」

と書いてあるけど、まさにそれ。

久しぶりの休日くらい寝てればいいのに

ライヴやセールに行って足が棒になったり、

得意でもない社交に参加して悪酔いしたり、

夜通し録画を見て目がしょぼしょぼしたり。

食欲や所有欲や見栄や打算やストレスなど、

「心(というかアタマ)」の都合に

カラダは素直に振り回されて奴隷になっているよ。

 

そこでまたアタマが心配を。

コピーを体感で書いているだろうか。

もちろんアタマを使ってする仕事なのだけど、

こねくり回す前に実感してないとよいコピーにはならないはずで。

なのに、締め切りがある、とか

誰かに褒められたい、とか

あと3つほど出したらかっこうがつく、とか。

いろんな「邪念」「計算」が渦巻いて、

ご都合主義のレトリックになっているかも!?

 

…というアタマの懸念によりカラダに発令される

「体感コピー」への試行錯誤。

これがまた、

腱鞘炎の親指をボウボウ燃やすわけであります。。

 

 

 

エクソシストの思い出

 

この夏は一本くらいホラー映画を観ようかと思う。


私が初めて子供同士で観に行った映画は

エクソシスト」だった。

確か小六の夏で、封切館ではなく、

もう二番館にきていたようなタイミングだった。

阪急宝塚線の、うちの最寄駅のひとつ隣の駅前の、

さびれた商店街の中の、小さい映画館。

仲良しの友と二人で観に行った。

 

その頃は映画のCMなんかやってなかったから、

多分小学館の学習雑誌やコミック誌なんかの

紹介記事に載っていたのだと思う。

大評判になった「エクソシスト」だけはもう、

どうしても観たくて観たくて、

親に行かせてほしいと頼んだのだ。

その年私たちは中学受験をすることになっていて

同じ塾にも通っていたのだが、

受験勉強中の息抜き、ということで

双方の親から許しが出たのである。

 

ご存知の通り「エクソシスト」は、

少女にとり憑いた悪魔を神父が祓う物語。

主人公・リーガンの首が180°回転したり

口から緑のドロドロを吐いたり

神父が悪魔と闘って苦悶しまくるシーンなどは

もちろんちゃんと子供らしく怖かったが、

一番恐ろしかったのは、冒頭の、

どこか異国の遺跡から発掘される悪魔の像。

確か数秒のシーンだったが、

この「何か嫌なもの」「禍々しい」「ヤバい」感、

これだけは、数十年たった今でも忘れられない。

絶対に見てはいけないものを見てしまった感じがした。

 

その日の映画館はとてもすいていた。 

観終わって映画館を出るともう薄暗く、子供心に

「陽の光を見ないまま帰るのはいやだなぁ」と思った。

悪魔に負けてしまうのではないかと思ったのだ。

その夜は枕元の、赤ちゃんの時から持っているぬいぐるみが

どうしても悪魔に思えてしまい、

夢うつつにうなされて眠れず、これまた初めての不眠体験。

そのあと日本はなんだか海外ホラーブームになって

大学卒業までに私は何本も怖い映画を観るのだが、

不眠と悪夢に苦しんだのはこの「エクソシスト」だけである。

 

その日、私と友人の二人ともが

母親が作った夏のワンピースを着ていたこと。

映画館に入る時にぎゅっと手をつないでいたこと。

そんなことまではっきり覚えているのはなぜだろう。

なんかわからないけど怖いという気持ちに好奇心が勝ってしまう、

今に至るも変わらない、自分の基本性格。

一緒に怖いものを見た彼女。

エクソシスト」の記憶とともに、

暗い映画館に座っていた二人の女の子の姿もよみがえった。

 

そんなわけでこの夏は、

久しぶりに怖い映画でも観ようかと思ったのです。

 





魚好きのボヤキ

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魚が好き!

とりわけ青魚が、食べるのも料理するのも大大大好きなのです。

(青魚愛については別の場所でも語ってまして…若干うざい人になってます

青魚をほめ讃える | リレーコラム | 東京コピーライターズクラブ )

 

そんなわけで、スーパーやデパートの鮮魚コーナーでも

きわめて積極的に店員さんに話しかけます。

「鰤、今日切り身出してるなら奥にアラもありますよね?」

「この鰯の目めちゃ透明!ナマス最高ですよね?」

「この真鯵、3枚におろして中骨もください。骨センで一杯やるので。」

「鮎の黄色いのと白いのってどうちがうんですか?どっちが美味しいの?」

楽しい…魚トークほんと楽しい!

ところが最近、残念なことを続けて聞いたので、

今日はそのことを書いてみたいと思います。

近所の某スーパーでの話です。 

 

豆鯵が安いとたくさん買って、塩胡椒小麦粉を薄くはたいて揚げ

南蛮酢にジュッ!と漬けて食べるのが大好きです。

ところがしばらく前からお店にこの豆鯵のパックが見あたらず、

先日ついに鮮魚売り場の人に質問しました。

「なんで最近小魚ないんですか?」

「それはですね…」

なんでも豆鯵のパックにたまに別の稚魚や稚蟹がまじっているのに

お客さんからクレームが入ったそうで、店側としては

それらを完全に除くのは無理なのでパックをやめたとか。

ふうん…残念。

その人も、ちっちゃい蟹なんか入ってたらラッキー♡くらいに思えると

いいのにね。  

 

そしてもうひとつ。

 

新鮮な青魚を手頃な値段で見つけるともう必ず、

♪いずれナマスかカルパッチョ…♪ などとつぶやきながら

カゴに入れてしまいます。

そして質問するテイで嬉々として店の人に話しかけます。

ところが近ごろ、相当新しそうなものにも表記に

「フライ、煮物用」と書いてあって、なんか不思議でした。

 

ある日のこと。

鰯の新鮮で大きいやつが5〜6本も入って安く売られていたので、

「最高!」とばかりに、梅煮にするかなますにするか思案。

そして、近くにいた鮮魚担当の男性に質問しました。

「これ、今日なます、いけますよね?」

すると男性は

「もし生で召し上がるなら、フリーザーで半日ほど冷凍してから

冷蔵室に戻して、解凍してから食べてください」と。

「!?」

…変だなぁ。

どう見てもこの鰯の目、私の目より澄んでるよ?

「それ、、めっちゃ味落ちますよね?」

「ハイ。ですが最近アニサキスの問題がTV等で話題になって…」

ははぁ。

お店としては、生魚に寄生虫がいてお客さんがお腹壊しても

責任取れないので、表記は「フライ、煮物用」に、

私のような質問には

「凍らして寄生虫を死滅させてから食べるべし」と

答えることになっている様子。

その温度感はすぐ察せられたので、

「わかりました!でもこれ、前に ’お刺身用’ として出されてたのと

同じくらいの鮮度ですよね」と質問を変えてみた。

するとくだんの店員さん、顔にはわかりやすく

「そう!刺身がうまいです!」と書いてあるものの、

「そうなんですが、お刺身で召し上がるならいったん冷凍して…」

とまた話し出したので、

「了解しました!」と答えて退散。

もちろん冷凍再解凍なんかせず、なますにして美味しく食べました。

 

寄生虫対策はよく見てよく洗うしかないですよねえ。または加熱。

お腹痛くなったら困るけど、そこは魚屋さんのせいにできないように思うのです

(お寿司屋さんなら責任あると思うけど)。

クレーム対策も過ぎると、おいしい魚が食べられなくなりそう…

 

以上、魚をめぐる残念2題でした!

 

 

青空の奥

 

本日は五月晴れの素晴らしいお天気。

もうすぐ夏、その前に梅雨…。

湿気がなくて爽かで、こんなにいい季節は今だけだなぁ。

 

澄み切った空を見ていて時々思い出すのは、ある短編のこと。

ブログタイトルにも入れさせていただいている、

敬愛する星新一先生の超有名短編集「ボッコちゃん(新潮文庫)」収録の、

「お〜い でてこ〜い」というショートショートです。

 

ある日ある村に突然大きな穴が出現。

穴に向かって「お〜い でてこ〜い」と叫んでも反応はないし、

底は見えず、小石を投げ入れても音もせず、

ためしに垂らしてみたロープは縁でちぎれて落ちてしまうし

調査することもできない。

学者や議員やマスコミがよってたかって騒ぐけどそのうち飽きて困り、

村は集会場を建ててもらうのを交換条件に、ある企業に穴を譲ってしまう。

すると企業は、生ゴミから核ゴミまで持ち込まれたゴミを

次々にその穴に捨てて処理して大儲け。

おかげで街はすっかりきれいになり、空もますます澄んでくる。

ところがある晴れた日、空から「お〜い でてこ〜い」という声がして

そのあと小石が一個落ちてきて…というお話。

先を想像してゾッとする大好きな短編です。

 

下に捨てたものが上空から落ちてくる、という設定が

子供心にもシュールで、はじめて読んだ時の衝撃は今もって色褪せず。

天地が折りたたまれる感覚は映画「インセプション」みたい。

地元や役人が途中で投げ出してお金に転ぶところなどは、今思うとリアル…

 

とにかく、ぬける様な青空から一つの小石が落ちてくる、という

ラストシーンが私には遠いトラウマとなって、

青空を見るといつもその奥にかすかな不安を感じるのでした。

(2017年、変なものが落ちてこないといいですねぇ。。) 

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