サバ缶とボッコちゃん

青魚と短編小説をこよなく愛するコピーライターです。 ブログタイトルは時々変わります。

そのひとは自分を変えてくれるか。

 

f:id:akubikkuri:20181017132508j:plain

先日、TCC(東京コピーライターズクラブ)の勉強会で

アートディレクターの副田高行さんのお話をきく機会がありました。

 

副田さんは、広告が世の人の心を動かしてきた時代を

作ってこられた大先輩クリエイターの一人で、

最近のものだと「サントリーBOSS/宇宙人ジョーンズ」のシリーズや

TOYOTAハイブリッド/ReBORN」のシリーズ、

宮崎あおいさん出演の「Earth music&Ecology」や

吉永小百合さんの「シャープ/AQUOS」シリーズのデザインなど。

代表作を数え上げるときりがありません。

 

その日は主に最近減ってきた新聞広告についてのお話で

参加者の多くは若手のコピーライターでしたが、

もう長くこの仕事を続けている自分にもとても響く

(というかむしろベテランにより響くと思った)言葉の連続で

とても勇気が出ました。

 

中でも一番ハッとしたのは、

「初めて組むコピーライターとデザイナー(アートディレクター)は

出会いであり、互いに相手を新しくする」という言葉。

 

言うまでもないことですが、広告の仕事はどれも

コピーライターとアートディレクターの共同作業です。 

代理店、制作会社、デザインブティックと、

出自や育ちが違えば仕事の進め方も価値の置き方も全然違う二者が

組んで出し合うアイデアや表現や提案方法で、

時にはぶつかり、時には相手に驚かされながら

クライアントに向けて一丸となって力を出していく。

その過程がお互いを成長させるし、

そういう相手でないと組んでもうまくいかないよ、ということでした。

 

そう相手に思わせる作り手でいたいな、いなくちゃな。

まだまだまだまだだ、と苦しかったり

逆にちょっと違うんじゃ!?と相手に思ってしまう時もあるけど、

新しい人と組めるのはいつも楽しい。

フリーランスなので…出会いはほんとうに貴重だと思います。

相手に変えられたり影響を与えたりできる柔らかさと

強さを持ちながら(これがなかなか難しい…)、

一生懸命仕事をしたいと(かなり殊勝に)思いました!

 

(参考:副田さんが広告について語った短いインタビュー)

 http://shiga-motherlake.jp/interview/2103.html

  

911の思い出

 

今日は9月11日です。あれからもう17年か。

 

f:id:akubikkuri:20180911193937j:plain

2001年のあの日のその時間は、

久米さんの「ニュースステーション」を見ながら

実家の父と電話をしていた。

実家でもニュースステーションがついていて、

私たちは同時に

「あ」

といったのだ。

 

父はその年の5月に脳梗塞をやって、

9月にはもう退院していたが左半身に麻痺が残り、リハビリしていた。 

それまで絶縁に近いくらい仲のよくない親子だったが

倒れてからはできるだけ電話するようにしていた

(母にかけて代わったり代わらなかったり)。

 

テレビは「いまNYのWTCに飛行機が突っ込んだ模様です」

というのを緊急中継でやっていて、

まさにその番組中に2機目がビルに突っ込んだのだった。

それを、父も私も、兵庫東京と離れて受話器を耳に当てつつ

親子の会話よりテレビ画面の方を注視していて、

同時に目撃したのだった。

その時の会話で父が発した言葉は

「これはえらいことになってくるで」だった。

 

簡単に父の紹介をすると、彼は新卒から退職まで

在阪のTV局の社員で、2001年は退職して6年目。

退職時にあった関連会社への誘いを全て断った父に

当時私は「まだ働けるのにもったいない」と言ったりしたが、

若い頃は現場ディレクターだったのが

年をとって管理や関連会社に回ったりして、

もう勤めはいいやとなったのかもしれないと最近は思う。

旅行と絵描き三昧で悠々自適を目論んでまもなくの脳梗塞に、

今思えば2001年あたりはかなり腐っていたと思う。

 

父は一昨年他界したが、

世界はえらいことになってきたというわけだ。

世の中が変わりはじめる象徴的な夜だったな、と、

私はいつも、

受話器を持ったままTVを見て凍りついていた父と自分の姿とともに

911を思い出すのです。

 

(写真は2012年、再建中だったWTC) 

 

 

 

職人とビジネスマン

 

フリーになる前、

長く会社員クリエーターとして働いてきた。

 

広告代理店にいた頃は恥ずかしながら自分を

「表現にこだわる職人タイプ」じゃないかと思っていて(冷汗)、

企画ファーストの粘り腰で提案し続け、

営業やお客さんにも面倒がられたりたまには喜ばれたりしていた。

 

ところが近ごろ、個人で素晴らしい仕事をされている

アートディレクターや演出家の方とご一緒すると、

時に落ち込んだり反省させられたりする。

__自分の「バランス感覚」にげんなりするのだ。

 

いまは広告代理店をはさまないで(それがちょうどいい規模感で)

直接クライアントの新商品のロンチや

ブランディングを手伝う仕事が多く、

市場で一歩抜けることや新しい市場をつくることを使命に、

良い結果を目論んで戦略や企画表現を工夫する。

それらに

「高費用対効果」や「明快なわかりやすさ」が

求められることは当然だけど、

しばしばお客さんからは

「社内各部の意見を一致させて進みたい」

「上層部好みの案も追加してほしい」

「本国からきたCEOの功績にしたい」

等の人間くさい要望が現れて、

まだほわほわに柔らかい製作中の企画の前に立ちはだかる。

 

そんな時自分は、そのすべてには

「それは理屈が通らないです。却下で」とは言えない。

もちろん全部を受け入れるわけもない。

でも、依頼した監督やADの中には、

「それなら降ります」「これは質に関わる。できない」と

キッパリ言い切って清々しい方もいらっしゃる。

 

忖度や多数決や無理筋のスケジュール、

輪郭立ったクリエイティブには辛いこれらを

押したり引いたりなだめたりしながら実現へ運ぶ。

そのためにはブラフや根回しや

「まぁまぁ」といった美しくない態度さえ…!?

それは組んでいる彼らに良い仕事をしてもらうためでもあるけど、

やり方はブザマな搦め手だ。

そんな自分に憮然として落ち込むのだ。

 

思えば会社員の時はこの「そこをなんとか」を

他部署がやってくれていたのだし、

表現より前に「仕事をこしらえること」「依頼されること」の

大変さを今はとてもわかる。

費用はクライアントから出ているのだし。

だけどそうやって自分にきた仕事だからこそ

120%の力でクリエイティヴするべきで、

そこがジレンマとなる。

 

他の独立系CDはどうマインドを強化されているのかな。

今度きいてみたいと思う。

(しかしこのポスト、自分ブランディング的には全くマイナスですよね…)

 

f:id:akubikkuri:20180808205607j:plain

 

夏休みの終わり〜映画「フロリダ・プロジェクト」から

 

ふと。

子供の時って「いつまでも子供でいたいな〜」とは

思わないんじゃないかな。

その幸せをまだ他と比べたことがないから。

 

少し前に「フロリダ・プロジェクト」という映画を観た。

定収入がないためアパートを借りられず、

ディズニーワールド周辺のモーテルに暮らす若い母親ヘイリーと

6歳の娘ムーニーをめぐる人々のひと夏の物語。

ぷっくりと体温が高そうなムーニーは、

その体全部で毎日を謳歌している

(子役のブルックリン・K・プリンスがかわいい!うまい!)。

母親ヘイリーは偽香水売りでなんとか生計をたてているが

素行が悪く、周辺に迷惑をかけながら次第に追い詰められ、

やがて誇りにできない商売に手を染めてしまう。

 

おしゃまなムーニーの世界は、

同じモーテル暮らしの友達と笑い、走り、悪戯をする毎日で

子供らしくて影がなく、とても幸せそう。

青い空、ぼうぼうと茂る緑の濃い草。

カラフルな建物の入り組んだ中につくる秘密基地や

友達と交互になめるアイスクリーム。

そんなシーンに、子供時代の夏休みを思い出した。

ヘイリーはいわゆるヤンキーというかDQN的な人なのだが

そこに陰惨な育児放棄などはなく、

貧しいなりに娘にせいいっぱい愛情をかけて、

育てているというよりまるで戦友同士のように

二人で懸命に生きている。

19歳の母ヘイリーもまた大人になりきっていないのだ。 

 

映画は定石通り、楽しい日々は突然に終わる。

ちっちゃなムーニーはある時期の自分に別れを告げて

歩き出さないといけなくなる。

 

成長しなければならないことは、辛い。

 

少し前、虐待されて命を落とした女の子の事件があった。

そのことをここで論じるつもりはないけれど、

たった5つの女の子が文字を覚えて反省文を書いていたということが

いたたまれなくて深く同情した。 

子供の時は「いつまでも子供でいたいな」とは思わないだろう。

その時代の幸せをまだ他と比べたことがないからだ。

そんな年ごろなのに無理やり大人にならなければ

ならなかったんだとしたら、かわいそうすぎる。

 

何かを知ったりわかったりすることを、

若い時には「成長」という。

年齢が上がると「成熟」や「老化」「悟り」と言ったりもする。

知ったとたんに知らなかった時代は過去になり

無垢だった自分がどんどん遠くなっていく、寂しさ。

その気持ちは、なんだか夏休みの終わりに似ていると思った。

 

これからも何度も何度もくる、夏休みの終わり。

映画のムーニーも自分も、

その寂しさをこのあと何回も噛みしめて生きていくんだろうな。

 

f:id:akubikkuri:20180713153825j:plain

 

 

  

書いて覚えておく。と、それ以外は忘れてしまう。

 

すごく印象に残る出来事があった時。

例えば、映画に感動したり

街でちょっと面白いことに遭遇したり

忘れたくない旅の思い出や

心を動かされた人生イベントなど。

それを忘れないうちに、

誰に伝えるでもなく文章に(日記やなんかに)残しておく。

 

で、後日たまたまそのことを人に話す機会がきて

話し始めると、なんということか、

たいてい書いた内容をそっくりそのまましゃべっているのだ。

近い出来事の場合は、記憶を頼りになるべく

作文したこと以外の詳細を話そうとするのだけど、

面白かった、印象に残った部分はもう形容詞や表現まで、

文章とまんま同じ言い回しでしゃべってしまう。

 

ちぇっ。もおっ!

記録すれば安心なのか?

それ以外は忘れちゃってもいいっていうの??

自分ってほんっと〜〜に才能ないんだなぁ。

心動かされたことを血肉にする才能がさ。

 

と、面白いことがあって人にしゃべるとき、

「こんなに型にはまってしまうなら作文しなきゃよかった…」と

自分の脳みそが悔しいのです。

(写真は落下してきた肉を捉えた瞬間のホッキョクグマ。お暑うございます。)

f:id:akubikkuri:20180628183837j:plain

 

 

 

 

音楽と言葉と国

 

先日wowowで、米国トニー賞授賞式を観ていて思ったこと。

 

トニー賞は、期間中にN.Y. ブロードウェイで上演開始した

演劇やミュージカルなどの舞台芸術に与えられる賞だそう。

司会はじめノミネート俳優や監督もほとんど知らない方ばかり、

授賞式はアカデミー賞(映画)やグラミー賞(音楽)より

しろうと目には地味な印象ながら、アットホームな進行でとても楽しめた。

 

発表とともに受賞者の演目の一部が再現されるのだが、

どれも誇りに裏打ちされた歓喜はちきれんばかりのステージで感動。

偏見やいろいろな問題を抱えているけどアメリカって(どこの国もだが)、

ことエンタメに関しては本当に懐深くて素晴らしい国だと思う。

英語がもっとできたらさらに楽しいだろうなあ。

 

そこでふと思った。

いったい、「音楽」「言葉」「国(意識された帰属意識)」は

どういう順番で生まれたんだろう。

 

お猿だった時代(ざっくり)から嬉しいときは飛んだり跳ねたり

棒で何か叩いて音を出したりしていたとしたら、まずは音楽か。

いやいや、大昔からお猿間コミュニケーションはしていただろうから、

ウーとかアーとかレベルでも言葉が先(文字はまだとして)か?

いや「ボス猿」というくらいだからまずは縄張りや帰属意識かも。

 

そんなことを思ったのは、こういう肉体芸術の発表において、

構造がシンプルであればあるほど

(かかるコストやしがらむ組織団体が少ないほど)

理性よりも本能というか原初的な幸福にあふれて、

我を忘れて楽しめるんだな〜と感じたせい。

 

なら、こうかな…

まずはひとりでも歓喜や感傷を表現できる「音楽」。

次に他人が近くにいれば当然生まれるだろう必要な「言葉」。

最後に、群れて共感と安全を(同時に不自由も)得る「国家」。

(さらにず〜〜っと遅れて「宗教」?)

 

そうなると、少なくともくだらん人種差別や国境は無視して

様々なエンターテインメントを楽しみたい。

歓喜ベースで生きられたらしあわせ、多くの人がそう感じるから、

トニー賞やアカデミー、グラミーはこんなにもりあがるのかしら。

f:id:akubikkuri:20180619193556j:plain

 

形容する言葉

 

雨。

長く愛用していた傘が壊れたため、

今日は別の傘をさしてお昼を買いに出た。

 

その傘は、明るいグリーンに黒いチェックマーク✔︎みたいなのが

全体に散らばってる柄で、

たたんで袋に入れるとサボテンを模しているのだとわかるが

広げるとその意図はちっとも伝わらず、

派手な色が服に合わせにくくて出番も少ない、微妙な傘である。

それをさして歩いている時、

ふと頭に「ばかげた傘」という言葉が浮かんだ。

 

なぜ「ばかげた」という形容詞が浮かんだかというと、

おそらく自分好みの翻訳小説の、風変わりだったり

素直じゃない登場人物が出てくる話の訳文で

「ばかげたカーテン」とか「ばかげた会話」みたいに

たまに使われていたのを気に入って、

そのままインプットしていたのだと思う。

 

ところで、「ばかげた」という形容詞は「傘」に使うだろうか。 

 

コピーを書く仕事にはいつも、いくつも形容することばが必要で、

ただ「楽しい」とか「おいしい」「面白い」「不思議な」といった

ざっくり大きな形容詞は、そのまま素直には使いづらい。

「楽しい遊園地」や「おいしいごはん」じゃ

平凡すぎて宣伝文句にならない。

「おいしい」や「不思議な」を使うとしても、

形容対象の単語と面白いギャップがあって

強烈に新鮮に見えるように使うとか(怖れ多すぎる例ですが…

糸井さんの「おいしい生活。」「不思議、大好き。」)。

むしろ「どうおいしいか」「どう面白いか」の「どう」を

どのように形容するか(または形容しないか)、と

常に頭をひねっている。

 

ある仕事で、ぶどう味のおいしさを形容するのに

「ちゅるんとおいしい」と表現したら、

「味に「ちゅるんと」とは一般的でない。修正」と、

お客さんの確認部署からチェックが入って困ったことがある。

もちろんあまり使わないから使ったのだが、

その時は説明や代案に悩んだ上に、

伝わらなかったか…と他の意味でも落ち込んだ。

 

例が卑近すぎたかもしれないけれど、仕事ではいつも

’その一行を(共感も反感も計算して)印象に残す’ 使命のもと

はまる・素敵な違和感を考えているが、

それは受け入れられる範疇でなければならないのだ。

その点で小説は自由だなあと思う。

 

だから「ばかげた傘」という表現は

「誰が買うの!?っていう微妙なセンスの傘」

「持つと何着てもおしゃれに見えない傘」

「誰もサボテンの柄だって気づかない傘」

という感じをひっくるめてぴったりだなと思ったのだ。

とはいえこの「ばかげた傘」、

パン屋との往復10分でそんなことを思わせてくれて、

実は「なかなかの傘」なのだということがわかった!

 

f:id:akubikkuri:20180615163758j:plain