サバ缶とボッコちゃん

青魚と短編小説をこよなく愛するコピーライターです。 ブログタイトルは時々変わります。

肉体の突然の消滅

 

私事ですが、

昨年晩夏に父を送り初盆に帰省しています。

だからというわけでもないのですが、

「死」についての軽佻浮薄な考察。

(宗教観、科学的知識皆無の感想文です

…無知無神経ご容赦ください)

 

心臓麻痺や事故、災害などでの突然死のまさか、について。

死者自身はどんな思いなのだろう。

 

以前、心筋梗塞で突然亡くなった先輩の葬儀でのこと。

棺にお花を入れようとした時の、棺の中の先輩の

はっきりくっきりとした「ここにいない」感。

それと同時に感じた、

棺上空3mくらい斎場天井あたりに漂う先輩の

「あ〜も〜オレ…」という困惑と、

「ここ(天井のとこ)にいるよ〜」と微弱に主張する気配。

これらはいまでも忘れられない。

 

突然死で肉体が消滅または機能を止めた時も、

長患いでの死や老衰死と同じく一律に

私たちはそれを「死」と呼ぶけれど、

突然機能が止まってしまった本人にとっては

覚悟も何もできていなくて、

それはもう驚愕の一大事なのではないか。

きっとその瞬間瞬速で魂が肉体を離れてしまって、

一生懸命に「ヤバイ!早く戻らないと!」と、

素潜りの不得意な人みたいに

腹筋(もうない)や背筋(これもない)をふんばって

下に戻ろうとしても、戻れない。というか、

戻るべき肉体がなくなってる場合さえある。

お〜いおれのカラダ〜!!って。

 

また、若くしていった友人の場合。

献杯した居酒屋でお猪口の水面がふと揺れてみたり、

当初たまに、ゆかりある公園の上空に気配がしたりなど。

彼は突然死ではなかったが、

こんなに早くこちらを去るのはさぞ無念だったと思う。

 

こんな風に肉体と魂を分けて考えるのは奇妙だろうか。

少し離れたところの人の後ろ姿を黙って見つめていると、

気配を感じてその人は振り向くだろう。

それをさせたのは「視線」というもので、

物理的なものではないし別に熱なども帯びていないけど

そこからは気配というか「気」のようなものが出ているはずで、

そのことをタマシイ、と読んでみたくなる。

肉体がなくなってもすぐ「気」はなくならないのでは?

とそんなことを信じてしまっている。 

いや決してオカルト好きというわけではありません。

 

などとここ数年思っていて、

その感じに「なるほど」とひとつの答えをくれたのが

山田洋次監督の「母と暮らせば」という映画だった。

(物語/長崎の原爆で死んだ息子が幽霊となって母と婚約者にずっとよりそうが、

いつしか時は流れて。吉永小百合二宮和也主演) http://hahatokuraseba.jp/

 

二宮和也演じる息子は、

原爆で肉体が瞬時に消滅したせいで最初は死んだ実感がなく、

現世を右往左往するものの、だんだんその状態に慣れて

ゆっくりと死者(こちらがそう呼ぶのだが)になっていき、

やがて完全にあちらの住人になる。 

そして、残してきた大好きな母にずっと寄り添いながら、

母がいく(あちらの世界からすると「来る」)のを迎える。

こんな風にあちらから「お迎えがくる」ならさみしくないな。

子孫はいないけど、先にいった誰かが

迎えにきてくれるなら安心、などと思って私は、

悲しい中になんだかほっこりした。

 

きっとこれは年を重ねるとより実感されていくのだろう。

「お迎えがくる」をずいぶん具体的にイメージして

納得してしまった映画だった。

 

だからといって、先輩や友人を失った悲しみが

消えることはないのだけれど。 

そしてこんなことを軽々しく書いているのを見て、

上にいる父が「あほうお前に何がわかる!」と

渋面を作っているのも感じるのだけれど。