サバ缶とボッコちゃん

青魚と短編小説をこよなく愛するコピーライターです。 ブログタイトルは時々変わります。

「ならわし」と「脱線」

 

テレビの甲子園、選手も観客も暑そう…

最近の夏は過酷だし、東京ドームみたいに

屋根&空調付きの場所でやればいいのに。

と思ってはみたものの、「めざせ甲子園!」。

ここが聖地だもんなぁ。

…以下、夏の昼下がりにとりとめもなく考えたこと。

 

こういうのは「風物詩」というか「ならわし」というんだろうな。

「ならわし」は基本的に大切にすべきだけど、

環境や時代の常識に合わなくなっているものもありそう。

でも長く続いてきた慣習ほどアンタッチャブルというか

見直しにくいんじゃなかろうか。

反対する人もいるだろうし。

単純に変えるよりも続ける方がラク、というのもあるかも。

 

ちょっと前から、小中高の「マスゲーム」が危険だといわれて

禁止や段数制限しようという動きになっている。

下段の子達は重くて大変そうだし最上段の子は落ちたらケガをする。

だけど、そんなハラハラのパフォーマンスなのに

そこには一体感や純粋さがあって、やる方も見る方も感動してしまう。 

たとえ安全性重視の方向に指導があっても

やらせてください!という生徒が絶えなかったり

希望をかなえてやりたい親や先生もいて(心情的にはよくわかる)、

やめてしまうのは簡単ではなさそうだ。

こういう「ならわし」には、外野の指導くらいではなかなか止められない

魅力や魔力や心情的な枷があるんじゃないかしら。

 

そこで思い出したのがシャーリィ・ジャクスンの短編「くじ」。

ある日ある村の広場で、くじびきの儀式が行われる。

村人たちが集まって順にくじを引き、

当たった女性がみんなから石で打ち殺される、というお話。

 

この話が怖ろしいのは、

ご近所さんをみんなで殺す、という行為だけではなく

ずっと昔から続いているというその儀式がいつ頃からなぜ行われているか、

村長も村人も誰一人として知らないということ。 

人々も軽口や雑談なんかしながら集まり、

「誰それさんがまだ来てないよ〜」と声があがると

みんな気長に待って(欠席は許されない暗黙)、

「やぁ遅いぞ」「すまんすまん」なんてのどかな雰囲気で始まる。

くじの木片もくじ箱も文字が薄れて読めなくなってるほど古びて

儀式の順番もすでにあいまいになっていて、

「端の人から引く」というざっくりした方法で行われる。

当たった人の恐怖はさぞかし、と想像するのだが、

全てが平常心のカジュアルな雰囲気の中、

当人さえ少し抵抗したり焦ったりするだけで死を実感する間もなく、

手に手に石を持った村人たちに打ち殺されてしまう。

終わるとまた人々はのんびり散っていく。

 

これって「ならわし」に全く疑問を持つことなく続けてきた

思考停止の恐ろしさを描いている話ではないか…

(と今ごろ気づいた。大好きな短編:)

 

なんでも新しくすればいい、というものではないし、

古臭くても保守的でも守っていくべきことはたくさんある。

が「そういうもんだ、ならわしだから」に含まれるブキミは、

確かにあるなあ。

 

・・・

球児の汗からえらいこと脱線してしまった。。

酷暑の甲子園、みんな倒れないといいな〜

…そうか!

甲子園にドーム屋根と空調をつければいいんじゃん!

 

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