サバ缶とボッコちゃん

青魚と短編小説をこよなく愛するコピーライターです。 ブログタイトルは時々変わります。

音楽と言葉と国

 

先日wowowで、米国トニー賞授賞式を観ていて思ったこと。

 

トニー賞は、期間中にN.Y. ブロードウェイで上演開始した

演劇やミュージカルなどの舞台芸術に与えられる賞だそう。

司会はじめノミネート俳優や監督もほとんど知らない方ばかり、

授賞式はアカデミー賞(映画)やグラミー賞(音楽)より

しろうと目には地味な印象ながら、アットホームな進行でとても楽しめた。

 

発表とともに受賞者の演目の一部が再現されるのだが、

どれも誇りに裏打ちされた歓喜はちきれんばかりのステージで感動。

偏見やいろいろな問題を抱えているけどアメリカって(どこの国もだが)、

ことエンタメに関しては本当に懐深くて素晴らしい国だと思う。

英語がもっとできたらさらに楽しいだろうなあ。

 

そこでふと思った。

いったい、「音楽」「言葉」「国(意識された帰属意識)」は

どういう順番で生まれたんだろう。

 

お猿だった時代(ざっくり)から嬉しいときは飛んだり跳ねたり

棒で何か叩いて音を出したりしていたとしたら、まずは音楽か。

いやいや、大昔からお猿間コミュニケーションはしていただろうから、

ウーとかアーとかレベルでも言葉が先(文字はまだとして)か?

いや「ボス猿」というくらいだからまずは縄張りや帰属意識かも。

 

そんなことを思ったのは、こういう肉体芸術の発表において、

構造がシンプルであればあるほど

(かかるコストやしがらむ組織団体が少ないほど)

理性よりも本能というか原初的な幸福にあふれて、

我を忘れて楽しめるんだな〜と感じたせい。

 

なら、こうかな…

まずはひとりでも歓喜や感傷を表現できる「音楽」。

次に他人が近くにいれば当然生まれるだろう必要な「言葉」。

最後に、群れて共感と安全を(同時に不自由も)得る「国家」。

(さらにず〜〜っと遅れて「宗教」?)

 

そうなると、少なくともくだらん人種差別や国境は無視して

様々なエンターテインメントを楽しみたい。

歓喜ベースで生きられたらしあわせ、多くの人がそう感じるから、

トニー賞やアカデミー、グラミーはこんなにもりあがるのかしら。

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