サバ缶とボッコちゃん

青魚と短編小説をこよなく愛するコピーライターです。 ブログタイトルは時々変わります。

あしたはもっとよくなる(『三体』)

 

SF『三体』読了。 

筋をものすごく大まかに言うと、

「太陽が3つある苛酷な星に住む三体人が、

移民先としてはるか彼方の地球に狙いをつける。

阻止しようとする地球人と三体人の攻防の中、

次第に宇宙の真理が明らかになっていく」 

という感じ。

文革期の中国から超未来の外宇宙まで、

桁外れに永い永い時間経過の中に

赤裸々な人間模様と宇宙物理学他が登場しまくる、

ハードSFであります。

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この話の面白いところはたくさんあって

ネットにレビューもたくさん投稿されていますが、

私が感心したのは「時間」についての考察。

生まれてから死ぬまでという

時間経過の中に自分も位置しているのに、

時間のことなんてこれまで深く考えたこともなかったけれど、

読んで少し思いを馳せました。

 

物語中、ある登場人物が述べる。 

”人類は、あしたはもっとよくなる、という信念を持つようになった。”

 「あしたはもっとよくなる」ことを信じるからこそ、

作中の人々は、

冷凍睡眠に入って未来で目覚めることや

何百年もの彼方に冬眠しながら向かうことを

怖がりもせず選択する。

今が辛いなら眠って未来を待つ、

それは超ポジティブな現実逃避ともいえるかもしれない

(作中ある文脈で「逃亡主義」という言葉が使われている)。

 

しかし現実世界は違います。

2021年のいま、たとえば30年前と比べたら

経済はよりよくなっているか?

人々の自由は増しているか?

紛争地は減ったか? 

自然環境と前より融和できているか?

より賢く思慮深く楽しく生きているか?

「あしたはもっとよくなる」なんて、

未来の幸福を信じきった無邪気にすぎる前提では?

 

  『三体』は、自分が知る限り最も未来まで

(ネタバレ:1890万年先!)描かれた小説だと思います。 

この先の時間経過の間に世の中はきっと

良くなったり悪くなったりするはずで、

数千万年も先の未来まで眠って起きられるなら、

たまたますばらしい時代が待っているかもしれない。

けれど、現実にはまだ何百年も眠れる冷凍睡眠は不可能だし、

人類なんてあとちょっとしか存在できないかもしれないし。

ならば、

今の体感時間で年をとり、寿命がきて臨終、この時間経過を

幸福にすごすことに力を注ぐべきなのだ。

「何千万年か先」じゃなくて「あした」が

もっとよくなるように。

そんなことを伝えているんじゃないか、

と思いました。

 

ゴリゴリのハードSFの箱に

子供みたいに無邪気でな希望をそっとパッケージ。

私にはそんな物語でした。 

 

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(作中の描写「まるでゴッホの『星月夜』のような…」という下りにちなんで)