サバ缶とボッコちゃん

青魚と短編小説をこよなく愛するコピーライターです。 ブログタイトルは時々変わります。

年賀状はDMか

 

そろそろ今年も業務終了。

昨日は忘年会に出かけるぎりぎりまで年賀状を書いていました。

夏からの腱鞘炎がまだ痛くて、なんともヘニョへニョした筆跡…

本当はいまは極力手は使わないほうがいいらしいので

宛名は印刷にしたかったのですが、

以前「年賀状くらい手書きすべきだよね。

我々こころを伝える仕事なのに世話になった相手に印刷って」

とおっしゃる先輩の言葉になるほど、と思って以来の手書き。

ヘタな字で相手に申し訳ないなぁと思いながらも

ハイ次、ハイ次、と没頭し、がんばって数百枚書きました。

 

とはいえ、フリーになってからの年賀状

(家族名義のではなく仕事用の)には

半分くらいしか返信がありません。

挨拶なので返事を求めるものではないのですが、

一枚一枚その人向けの一言は添えるので、

少々寂しいのは確かです(フリーの割り切りが足りないかな?)。

特に、会社員時代職場で毎日顔を合わせて

何年もやりとりしていた相手から、

独立したとたんパタリと賀状がこなくなったりすると

今年から私は友人じゃなくて業者さん?などと邪推したりして

(やはり割り切りが足りないな)。

 

そういえば自分も会社員時代、

取引先の方からの賀状は受け取るのが仕事始め以降になることや、

親しい人には個人の賀状を出すものの

社用ハガキが切れていたりすると

つい遅れたりそのままにしてしまったり、

ということがありました。

仕事先に送る年賀状って、

もらった方にとっては「挨拶(もちろん)」「営業活動」

もっというと「DM」くらいの感じなのかと思います。

そして突き詰めて考えると、仕事上の年賀は

出す側の自分にとっても限りなく「手紙」寄りではありながら、

相手によって「DM」感を忍ばせていることも否めない。

(もう一つの要素としてここに支払いのベクトルも関連してる?

…トホホすぎるので突き詰めるのはやめよう)

 

本年ラストはなんじゃそりゃ!なトピックになりました。

ぼやぼやせずにこれから大掃除。 

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

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知らないことを知ろうとすること

 

人生は短いね。

 

と突然思ったわけではない。

が今年もあっというまにすぎてもう師走。 

一年の計を元旦に立てる派では全くないものの

年頭に漠然と

「英語をもうちょっと使えるように」

「できたら一人旅」

「週一程度は更新するブログを開設」

などの思いはあった。

なのに結局何一つ実現しないまま、

ふやけた年末を迎えている。

 

1年経つということは1歳年をとるということで

知見も人としても深まっていきたいのに、

勉強することについては中学以来のばかちんのまま。

情報に触れたり知識を得ることは好きだけれど、

私がしているのは「好きなもの」「好きな分野」を

手当たり次第貪っているだけで、

まあ言ってみればおやつを食べているのと同じ…。

本来すべき勉強とは

「まだ知らないことを知ろうとする」ことなんだろうな。

 

実は最近ある人が

「なるべく興味がない分野の本を読むようにしてる」

と言っているのを聞いて感心したのだ。

「好きでちょっと知ってる分野」を深掘りするのは楽しいけれど

「ほとんど知らないこと」を耕していくことは

とっつきにくいがゆえにアタマが刺激されるし

想像もしなかった面白いことが見つかって

解釈しだいで意外にも自分のフィールドで役立つ、

なんてこともありそうだ。

 

ならばまずは「自分が知らないこと」を知らないと。

 

自分はどんなことに「興味がない」だろう?

どんな分野のことをまるで知らなくて、

これまでどんなことを素通り、いってみれば

冷淡にしてきただろうか。

  

 

今年の一行「不安と希望」

 

TCC(東京コピーライターズクラブ)という

団体に所属していまして、今年は幹事として

広報部の活動を手伝っています。

その中のひとつとして先月末、

ビッグデータ解析による今年の広告コピー」

というリリースを作成しました。 

 

これは、膨大なデータ解析から市場や世の中を読む会社・

株式会社かっこ さんの協力で1年間の広告コピーを分析。

品詞別に登場数の多かった言葉をランキングし

最も一般的なコピーフレーズの構造にマッシュアップして

「今年のキャッチコピー」として発表するもので、

今年で3回目となります。

 

広告キャッチコピーは、コピーライターが市場や社会、

時代の風を思い切り呼吸して咀嚼、制作し

クライアントが了承して初めて世に出るもの。

ですから、世相のある側面は確実に映していると言えると思います。

ちなみに昨年の一行は「私たち、日本人。」でした。

オリンピック発表年だったことやあれこれに思い当たり、

個人的には大いに納得しました:)

そして今年の一行は、

 

「不安とか希望とか、会う?」。

 

昨年頻出した「日本人」なる言葉は

今年はすっかり姿を消しています。

この一本、みなさんのなるほど感はいかがでしょう?

見解は上記の記事に執筆しておりますので、

ぜひご一読ください。

 

 

きっとどこかで夕焼けを

 

異常気象のせいか、夕空の美しさが

年々ドラマチックさを増しているようなこの頃。

実は夕焼けにはちょっと特別な思いがある。

 

会社員時代、

ストレスをためこんでジタバタしていたころに、

知人の紹介で「前世が見えるひと」に見てもらった。

何周前の前世かはきくのを忘れたが、なんでも私は

「スペインで漁師をしていた」らしい。

 

銀座の古いカフェの2階で生年月日を尋ねたあと

そのひとはしげしげと私を眺めて、

「夕焼けが見えるわね」と言った。

「あなたは夕日をずうっと見ているのね。海岸ね」とも。

私は「夕日を眺めているスペイン人の漁師」

だったのだそうだ。

 

そう言われたことがとても腑に落ちた。

なぜスペインかということもきくのを忘れたが、 

このイメージが気に入ってそれ以来、

夕焼けを見るたびに思いが巡るのだった。

 

今日も仕事が終わったなぁ…

夕日が沈んでいくなぁ…

その漁師は男だったのかな…

ここはスペインかぁ

目の前は海岸かぁ…

この海は地中海かぁ!

 

そして、次いつ生まれ変わっても

人間じゃなくても、

自分は美しい夕焼けを見るだろう、

見るにちがいない、と確信する。

 

そんなわけで夕焼けを前にすると、

ライトな悩みくらいは

とりあえずすぐにリセットできるのだった。

 

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無駄のないおばさん

 

先日入ったとんかつ屋さんにて。

 

注文を取りにきてくれたのはカールした短髪を茶色に染めた女性で、

シャキシャキした感じだがよく見ると70歳くらい。

このお歳でホールはしんどくないかな〜

なんてちらっと思ってる間もなく、

 

ハイご注文?

 

と背筋を伸ばしてテーブルの横に立ち、

発声と同時にオーダーの機械に即入力の構え。

みぞれロースカツとビールを頼むと、

 

ハイみぞれロース生2丁!

 

と復唱、

 

ごまソースの作り方?

(「ご存知ですか?」という部分は言わないw

 「知ってます」と連れが答える)

 

と言い置いてテーブルを離れるや大声で調理場に

 

ハイ3番さんみぞれロース生2丁!!

 

とオーダー。

言葉と動きに全くムダがない。 

 

この日は打ち合わせ兼の食事だったのだけど、

この店員さん、

込み入った話をしている最中にも

 

ハイ キャベツもっと?

ビールは?

みそ(味噌汁のこと)おかわり?

ハイお茶?

ごはんおかわり?

キャベツ?

追加で揚げます?

ビール?

キャベツ?

みそ?

お茶?

 

とこちらのお茶碗があと米数粒、くらいになっても

何度もききにきてくれて(「いかが?」とか下の句は言わないw)、

最初はうるさいなあと思っていたけれど、

そのうちなんかすごく好きになってきてしまった。

 

その店は味噌汁もキャベツもおかわりし放題なので

こちらが追加したからって儲かるわけではない。

なのに減ってるお皿をちょいちょい見て

声をかけてくる。

きっと家族とか孫にもそんなふうに

世話を焼いてるんじゃないかな〜なんて。

 

食べ終わって会計へ。

彼女が右手に包帯をしているのが気になっていた。

自分もいま腱鞘炎で腕が痛いもんだからつい

「おばさん、腕、痛いんですか?お大事にね。」

と話しかけた。

 

すると彼女はえ?と一瞬不思議そうな顔をして

まるで知り合いのおばあさんみたいに優しい声で

「ありがとう」とはにかんで、

そしてすぐ営業の声で

 

ありがとう〜ございました〜!!ハイお客様おかえり!

 

と。

ここまた来たいな…でももう来ないかも

なんてことをさーっとコンマで思って、

なんだかツ〜ンときました。

 

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死にかけ語の悩み

 

言葉は生き物です。

みたいなことをときどき耳にしますが、

ちかごろ気をつけなきゃ、と思っているのが「死語」。

言葉で新しいことを伝える仕事をしている以上、

このあたりに鈍感ではいられません。

 

死語という「単語」じゃなくても

世間での言葉の使い方は日々少しずつ変わっていて、

たとえば「ら」抜き言葉(見ることが可能、を

「見られる」ではなく「見れる」と表現する)や

「い」抜き言葉(「知っている」を「知ってる」と書く)など、

ささいな変化でも、どう選ぶかで文の印象は変わってきます。

 

コピーライターは国語の先生ではないので

文法的に正しい言葉だけを使うわけではありません。

時代やターゲットに刺さりそうな言葉なら取り入れるし、

言い回しが拙かったりややわかりにくいような言葉でも

ターゲットにしっくりくるなら材料にして、

新しく作ったりもします。

もちろん派手な流行語(…激おことかw)は廃れたらすぐわかるし

そうそうコピーに使わないのでいいのですが、

すっかり常用語に定着した(と思いこんで)使った言葉が

「もう死んでいた」ら…。

 

ターゲットに「しっくりくるはず」をミスっていたら、

コピーだけではなくて商品イメージまでがだいなしです。

誰も指摘はしてくれないので

(後日SNSでつぶやかれたりすることはあるかも。これまた怖い)、

迷ったときはすごく緊張します。

 

最近悩んだのは、次の言葉。

「超〇〇」

「抜群」

「ヒト(人、をあえてカタカナで書く)」

「女のコ(子、をあえてカタカナで書く)」

これら、まだ使っておかしくないだろうか。

みなさんはどう思われますか?

 

 

 

肉体の突然の消滅

 

私事ですが、

昨年晩夏に父を送り初盆に帰省しています。

だからというわけでもないのですが、

「死」についての軽佻浮薄な考察。

(宗教観、科学的知識皆無の感想文です

…無知無神経ご容赦ください)

 

心臓麻痺や事故、災害などでの突然死のまさか、について。

死者自身はどんな思いなのだろう。

 

以前、心筋梗塞で突然亡くなった先輩の葬儀でのこと。

棺にお花を入れようとした時の、棺の中の先輩の

はっきりくっきりとした「ここにいない」感。

それと同時に感じた、

棺上空3mくらい斎場天井あたりに漂う先輩の

「あ〜も〜オレ…」という困惑と、

「ここ(天井のとこ)にいるよ〜」と微弱に主張する気配。

これらはいまでも忘れられない。

 

突然死で肉体が消滅または機能を止めた時も、

長患いでの死や老衰死と同じく一律に

私たちはそれを「死」と呼ぶけれど、

突然機能が止まってしまった本人にとっては

覚悟も何もできていなくて、

それはもう驚愕の一大事なのではないか。

きっとその瞬間瞬速で魂が肉体を離れてしまって、

一生懸命に「ヤバイ!早く戻らないと!」と、

素潜りの不得意な人みたいに

腹筋(もうない)や背筋(これもない)をふんばって

下に戻ろうとしても、戻れない。というか、

戻るべき肉体がなくなってる場合さえある。

お〜いおれのカラダ〜!!って。

 

また、若くしていった友人の場合。

献杯した居酒屋でお猪口の水面がふと揺れてみたり、

当初たまに、ゆかりある公園の上空に気配がしたりなど。

彼は突然死ではなかったが、

こんなに早くこちらを去るのはさぞ無念だったと思う。

 

こんな風に肉体と魂を分けて考えるのは奇妙だろうか。

少し離れたところにいる人の後ろ姿を

黙って見つめていると、その人は振り向くだろう。

それをさせたのは「視線」というもので、

物理的なものではないし別に熱なども帯びていないけど

そこからは気配というか「気」のようなものが出ているはずで、

そのことをタマシイ、と読んでみたくなる。

肉体がなくなってもすぐ「気」はなくならないのでは?

とそんなことを信じてしまっている。 

いや決してオカルト好きというわけではありません。

 

などとここ数年思っていて、

その感じに「なるほど」とひとつの答えをくれたのが

山田洋次監督の「母と暮らせば」という映画だった。

(物語/長崎の原爆で死んだ息子が幽霊となって母と婚約者にずっとよりそうが、

いつしか時は流れて。吉永小百合二宮和也主演) http://hahatokuraseba.jp/

 

二宮和也演じる息子は、

原爆で肉体が瞬時に消滅したせいで最初は死んだ実感がなく、

現世を右往左往するものの、だんだんその状態に慣れて

ゆっくりと死者(こちらがそう呼ぶのだが)になっていき、

やがて完全にあちらの住人になる。 

そして、残してきた大好きな母にずっと寄り添いながら、

母がいく(あちらの世界からすると「来る」)のを迎える。

こんな風にあちらから「お迎えがくる」ならさみしくないな。

子孫はいないけど、先にいった誰かが

迎えにきてくれるなら安心、などと思って私は、

悲しい中になんだかほっこりした。

 

きっとこれは年を重ねるとより実感されていくのだろう。

「お迎えがくる」をずいぶん具体的にイメージして

納得してしまった映画だった。

 

だからといって、先輩や友人を失った悲しみが

消えることはないのだけれど。 

そしてこんなことを軽々しく書いているのを見て、

上にいる父が「あほうお前に何がわかる!」と

渋面を作っているのも感じるのだけれど。