TCCリレーコラムから「あなたのこころに何かを」
8月にTCCのコラムに載せたものから。
5日目、最終日。
コピーライターの仕事について自覚していることと
もう少しがんばります〜的なことを書いています。
あなたのこころに何かを
90年代のはじめ頃は、
戦争がなくなって人々の垣根もどんどんなくなって
世界はもっともっと面白く、良くなっていくんだろう。
そう思っていました。
恵まれた時代に社会に出たばかりののんき者でありました。
しかしそれから間もなく、
世界はいつもうねっていて、反省したことはすぐ忘れ、
稼いだと思ったら無一文になり、進化したつもりがすぐ猿に戻り、
スカート丈は長短長短→? 眉毛は細太細太→? と少しも安定してなく、
天変地異や衝突だらけで予想もつかないものだ!とわかりました。
ただ、なんとなく気づいたのは
わたしたちのしてきたこと&してこなかったことで今のムードができている
ということ。
もうテレビない人見ない人ばかり/ボディコピーはほぼ読まれない
/キャッチに人生語られたくないって声/新商品のターゲットペルソナの年収が低い
/広告が言ってることはほぼ嘘と思われてるぽい
/クリエイターなんていいこと言ってお金もらっていい気なもん
・・・
コピーライターはその時どきに耳目を集める表現で、
クライアント側&人の幸福側(2つは対立してない前提)に立つ仕事。
広告なんて世の中のほんの一部だけど、
今の、経済落差が拡大してコスパタイパに厳しくなった市場に
うまく届けようと工夫して(忖度して?)きた表現が、
世の中のムードのいくばくかは作ってきてるんじゃないかしら。
責任がなくは、ない。
コピーライターの自分はすでに人生の大半の時間を占めていて、
食べていく手段ではあるけれど、どうしたって表現に自分の思いは重ねてしまう。
それを社会のためになっている、と捉えるか、
蟻とキリギリスのキリギリスのように耳ざわりのいい歌を謳っているだけ、と捉えるか。
それは良し悪しの問題ではなくてですね…
前回コラムを書いた時(2009年)は会社員だったからか、
そこまで「自分=コピー」とつきつめてはいませんでした。
だけどずっとこの仕事が大好きなんです。
なので、いつまで続けられるかわからないけど、
これからもがんばるつもりです! え〜と、
誰かのこころにほんの少しでも何かを。
・・・
は〜…ちらかりっぱなしの5日間となってしまいました。ヘタやヘタすぎる!
一週間おつきあいくださったみなさま、どうもありがとうございました。
回してくださった戸部さんにも感謝です:)
次は養命酒製造にお勤めのコピーライター、熊谷卓彦さんに託しました。
いつお会いしてもおだやかでメガネの奥の瞳が優しい熊谷さん。
前回コラムでは硬派な印象でしたが、今回はどんなお話をしてくださるのだろう!?
お楽しみに〜
☆来週はお盆週でこちらのコラムもお休み、次回は8月21日(月)からのスタートとなります☆
***
ラストはこの曲。
Something For Your M.I.N.D.(あなたのこころに何かを)/Superorganism
******
リレーコラムは一週間交代で、今回はここまで。
また新しいのもちゃんと書こうと思います。
TCCリレーコラムから「ダンスに間に合う」
8月にTCCのサイトに載せたものから。
4日目。
いろんな人を隔てているものからもっと自由になれたら、
みたいなことを書きました。
ダンスに間に合う
先日行ったフジロックで、あるバンドに手話通訳が入っていました。
巨大モニターに映る腕の動きがまるでダンスみたいで、
それを見て踊る人たちも何人もいて、なぜか胸がきゅんとしました。
聴覚にハンデがあると音楽フェスにはきっと参加しづらい。
でもライブって実は「振動」で「波」で「圧」だから、
その場に来れば体はそれを感じるしまわりを見て踊ったりもできる。
そこに手話があればもう、みんなと変わらず楽しめる。
カラダの機能や性別や貧富や人種や。
人にはいろんな違いがあって、生活や仕事や娯楽の中には
その違いが阻むさまざまなハードルがあるけど、
そういうのがだんだん薄れていけばいいなぁと思います。
音楽は、サブスクで国もジャンルもリリース新旧も関係なく
好きなら世界中誰もがどこまでも掘れるものになりました。
バンドは異ジャンルのメンバーとも軽々とコラボするし、
ジャンルわけさえだんだん無意味になってきている。
それは映画も同じで、制作側の意識や配信などで視聴環境も変わり、
既存ジャンルにはまらない複雑で繊細な作品が続々で、すごく面白くなっている。
言語の壁はGoogle翻訳の充実でやすやすと超えていけそうだし、
仕事場は、リモート作業や分身ロボットなどがちょっとずつ普及して
事情や都合のある人も参加しやすくなっていくのでは??
日本では女性の役職も増やしていくというし(ですよね?)。
コピーライティングは経済活動の手伝いをすることがほとんどだし、
キャッチは「わたしはこういうものです」と宣言し(決めつけ)て
競合よりも強く惹きつける使命があるから、フラット化とは逆かもしれない。
けど、「そんなあなたに合うわたしはちゃんとここにいますよ」、と
小さなターゲット向けの繊細なメッセージもたくさん伝えているはず。
だから、無神経・嘘っぽい・強者しか見てない・逆に臆病すぎる
と思われないものをちゃんと考え出せる心根はいると思います。
新しい仕事がきた時、
「秩序はあとから作るからさ、迷える混沌よどーんとこいや〜」みたいな
開いた状態でいるべきというか、
森羅万象ぜんぶ好き!みたいな気分を持っておいた方がいいのかも。
とにかく愛がないとこの商売はできんな。と、そう思ったことでした。
…とまぁ、フェスから帰ると大体このような’洗いざらしのナマ乾き状態’にて
茫然とPCの前に座ることになるのであります。反省。
…
フェス最終日の夜、出口付近のフードコートで若い韓国人の男の子二人に
話しかけられて、彼らと好きなバンドの話をたくさんしました。
一人と私たち夫婦は日本語、もう一人と私は英語、彼ら同士は韓国語で。
好きなバンドが同じだから、言語はなんだって良かったんです。
***
フジで手話通訳を入れていたのはこのバンド。
ダンスに間に合う/思い出野郎Aチーム
TCCリレーコラムから「友を待つ」
8月にTCCのサイトに載せたものから。
3日目。
長らく続けてきたルーティンやくせをやめられるのか!?
そんなことについて書いています。
友を待つ
見た目はベテラン風でも近ごろは少し体力が落ちてきました。
まだまだ先輩方がいらっしゃるので甘えたことは言えませんが、
よく眠れてないとアイデアなんか出ないし
集中力だって夕方くらいまでが関の山。
また特に、
「イヤな気分を持ちつづける耐性」がなくなってきました。
若い時(40代も若いとする)は、体力や負けん気やその場の空気などに押されて
ハラスメントめいたことや苦しい気持ちにおちいった場面も、
なんとかやりすごそうとがまんしていました。
でも最近は、そういうことがあるとサッとしらけてさようなら〜とスタコラ気分に。
さらに、これはもしかして良い変化かも?と思うのが
『ほんとはこんなことしたくないな』とか、
『思ってもないようなことを今わたし言ってるな』みたいな
自分発のプチ嘘つき局面(みなさんありますよね??)が
以前よりうんといごこち悪くて、うまく取り繕えなくなってきました。
この先、キレ散らかすガンコ婆にはならないように注意したいけど、
理不尽を感じたらなるべく相手に伝えてすみやかにそこを離れるとか、
ちょっと勇気はいるけど、私は全くそうは思いませんね〜。と
意思表示をはっきりした方が相手にも自分にもよいなと思います。
そして最近はスタコラさようなら〜とは逆のことも思っています。
「気の合う人とはもっと会うのがいいなぁ」
SNSの狂騒から少し我にかえってみると、
友達?そんなにどっさりはいらないし、毎週会う必要?それもしなくていいと思う。
でも、たとえ何年か間があいたとしても、会いたくなったら連絡しようと思います。
そして時々誘ってくれるお友達や仕事関係のみなさんには感謝。
そしていまあまり親しくなくても、仲良くなりたい人には凸してみようか…
これまた勇気がいるけれど。
これって今までのちょっと格好つけてたことを少しずつやめていく、
っていうことなのかもなぁ。
とにかく、いごこち悪くならないように努めたり、
大切にすればするほど気分がよくなるような事には
貴重なエナジーをおしみなく注いでいこうと思っています。
…なんだか情けないことをいっぱい書いてしまいました。。
ベテラン風なのに。
***
ある男がふとルーティンから降りる…
そんな感じに聴こえるストーンズの曲。
Waiting On A Friend(友を待つ)/The Rolling Stones
TCCリレーコラムから「インスタントミュージック」
8月にTCCのサイトに載せたものから。
2日目。
A.I.についてのモヤモヤを書きました。
インスタントミュージック
突然ですが、
ChatGPTのせいで仕事が減っちゃった〜という方はいますか?
または楽になった〜という方は?
どんなもんかと思ってわたしもいくつか
架空の商品コピーをアプリに作らせてみたんですが、
質問のしかたが悪かったのかどこかで聞いた言葉の羅列しか出てこず…
「もっともらしいのに記憶に残らない」不思議な文章しか得られませんでした。
*独自性のある印象的なつかみ
*共感されるわかりやすいボディ
日ごろ小さい脳ミソを駆使してこれらをひねり出してる身からすると、
集合知を使い放題の養分にして展開するChatGPTには、
「競合と異なって際立つもの」は生みだしづらいのかな?
少なくとも今はまだあまり使えないのではないかと思いました。
ところで、少し前に聴いたラジオで劇作家の本谷有希子氏が
「創作する時に『共感されるものを書こう』ってしてしまったら終わり」
「ついいいねやフォローを求めて発信してしまうけど、それに捕まってはいけないと思う」
と発言されていて、思わず静聴。 さらに彼女は
「共感したいされたいって衝動を”共感おばけ”って呼んでる」 とも言っていて、
・なるべく「いいね」をもらわない
・できるだけ誰にも共感されない事柄を書く
なんて離れワザを目下の野心としているとのこと。
作家はこんなことを思うのか!?と感心して、
到底かなわないなと思いました。
なるほど”共感おばけ”は今の経済社会の一大特徴。
だからコピーライティングは、人からいかに多くの共感を得、
企業や商品をいかに「いいね」と思わせるかに腐心する。
その上で、少しでも世の中を驚かせたい!と望んで
ひたすら技術を磨きつづけるのがコピーライターというもの…健気だと思う…
彼女の言葉から、コピーライターは宿命的に
「共感獲得の使命」を負っている、と今さらに気づかされ、
目ウロコというより、作家と呼ばれる人の発想や解放され度に
嫉妬まで感じたのでした。
とはいえ、共感されたい!好かれたい!メッセージばっかりだと
送り手も受け手も双方バカになっちゃうので、
よいコピーは「ワカル!」と「知らんかった!」の絶妙なハザマを射抜くわけですよね。
そこでわたしは問いたい。
ChatGPTよ、きみにそんな芸当はできるんか〜い。
***
アベレージこそがハッピー?
インスタントミュージック/ザ・ピロウズ
TCCリレーコラムから「たのしいひとり」
もう10月の半ばですが、今年は一つも記事を書いていません。
一度手がとまるとまったく怠けてしまう…
でも閉じてしまいたくはない、、なんかないか!?
というわけで、今年8月のとある週に
末席に属していますTCC(東京コピーライターズクラブ)の
サイトに執筆したコラムをこちらにも載せておこうと思います。
5本あります。
どなたか読んでくれるかな…
たのしいひとり
残暑お見舞い申し上げます。
2009年入会の沢辺です。
前回の執筆は、新人賞受賞直後の14年前。
あれから自分も世の中のムードもだいぶ変わりました。
というわけで今回は、近ごろ変わってきたなと感じる
「ちょっとしたこと」について書いてみたいと思います。
テーマも漠然、、&唐突ですが、好きなアーティストの曲も毎回ひとつずつ。
一週間どうぞおつきあいください。
***
8年前にまあまあ長く勤めた広告代理店を退社しまして、
いまは仕事人生で二度目の「ひとり」です。
最初にフリーになった時のことは以前にも書いたのですが、
その時と一番ちがうのは、
どこからどう見ても歳をとっている(ベテランともいう)!ということ。
当然ですがティーン向け商材のコミュニケーション等には声がかからず
(そういえば妖怪ウォッチを使ったCMが一回だけ…)、
ブランディングなど企業に伴走しつつお手伝いする仕事が多くなりました。
どなたかも書いてらしたけど、企業に多少代理店ばなれが起きているのか、
私のような無名のフリーランスにも時々ご依頼があります。
先日’渋谷のラジオ’でも少ししゃべったのですが、
会社員だった時のように会社に来た仕事にアサインされるのではなく、
フリーランスの、特に今は、「あなたにやってほしい」という仕事がほとんど。
先方の責任者と直接話せるのも醍醐味で、
俯瞰で見るとそれは責任重大すぎる恐ろしい状況…
なのに熱心な経営者の方にお会いするとうれしくなって
一肌も二肌もぬぎたくなってしまうのです。
そのかわり、熱のないお客さんに悩むことも多くなりました。
誰よりも考えているのはクライアントの開発担当のはず…
せっかく世に出るのになんだか責任があいまいな会議体から
ふわっと生まれてくる製品たちの痛々しさよ。。
だったらわたしがいちばん考えようじゃないの!と意気込むのですが、
それでものれんに腕押しだったりすると悲しくなります。
愚痴をこぼす相手もいないので、そんな時は気分転換。
オール自己責任で誰も守ってくれないフリーにも嫌われる自由はあるはずなので、
勇気を出してはっきりモノを言ったあとはいったんそのことを忘れて、
好きなことをします。
好きなことって?
…映画を観る/小魚揚げる/クッキーの型抜きしまくる/雑巾を縫うなど。
地味…
始めて8年、なんとか続けてこられてるのは、
「たのしいひとり」を守るために気合を入れてジタバタしているからかも。
時々「サワベはいつも楽しそうだねぇ」と言われることがありまして、
そう言ってもらえると、ジタバタが少しは成功しているのかなとうれしくなります。
***
というわけで、一曲目。
たのしいひとり/工藤祐次郎
さっきの猫
さっき、道を歩いている時、
突然猫の気持ちがわかったと思った。
用事をしていると、どいて欲しいところに横たわる。
例えば、PC仕事を始めようという時に蓋の上に乗っている。
料理をしようとキッチンに行くと足元のラグからどかない。
そうでなくても通ろうとする細路地にたむろしていたり、
ソファから立ちあがろうとすると服の膝に
爪を立ててぶら下がってきたり。
甘えているのだ。
ためしているのだ。
これはたぶんわざとやっている。
なぜなら自分もやるからだ。
ちなみに自分は猫ではない。
これらは一部実体験であとは人から聞いた話だ。
そして自分は、猫は飼っていない。
(写真は今泉力哉監督「猫は逃げた」より)
偶然のつどい
先日、心優しい年上の知人が亡くなり、偲ぶ会があった。
事情で通夜告別式がなかったことから有志が催してくれた場で、
そこに出かけて思ったこと。
その会は、故人のことを敬愛していた、その一点のみで
集まった人々でごった返していた。
故人の職から広告業界の人が多かったが、
年齢さまざま、もちろん自分の知らない人もたくさん来ていて
久しぶりに会う人とお話できたり、
話したことのなかった人と自己紹介をしあったりの機会になった。
きっと、その場にいた人たちの多くがそうだったのではないか。
昨今、会社も学校もリモートになったりして
不特定多数と集う機会が減り、
直接話すのは年齢や趣味の近い仲間内ばかり。
だけでなく、それがラクでいいや、ってことにもなっているような。
家族や友人とごはんを食べたりはしていると思う。
でも、普段あまり会わない年齢や属性の違う人と話す機会が
極端に減っているのではないかしら。
それって実は大事でね。
話を合わせるとか傾聴するとか、ちょっと気は使うかもしれないけれど、
あぁ久しぶりにお目にかかれて良かった〜!
という、少しばかり心と頭の筋肉を使うような動きは、
人間に不可欠なのではないか。
世の交流がいつもの仲間だけが集まる会ばかりになったらもう
社会はブチブチに鎖が切れてバラバラのカサカサに
なってしまうんじゃないかと。
言語の断絶バベルの塔が、国内でも起きてしまうというか。
だから、そういう集まりに迷い込ませてくれた
偲ぶ会があってよかったな、と思ったのでした。
もちろん、心優しかった彼の人柄のおかげです。
Sさんありがとう、安らかに。
そして催してくれた友人たちにも、ありがとう。