サバ缶とボッコちゃん

青魚と短編小説をこよなく愛するコピーライターです。 ブログタイトルは時々変わります。

ある旅行

 

先週わが家に実家(関西)から母がやってきて、一週間滞在した。

 

母は好奇心が旺盛で、

「〇〇行く?」ときくとほぼ「行く」と言うし

「〇〇食べる?」ときくと「ええな」と言ってくれ、

昨秋にも来ているけれど、

今回は気候もいいのでいっそうもりだくさんに。

 

東京駅へのお迎えに始まり、

押上の東京スカイツリー

銀ブラ&あんぱん購入

明治神宮で参拝

代々木公園で昼寝

渋谷でデパート巡り

近所の新旧スーパーを巡って品定め

自宅で並んで料理

二子玉川でリバーウォッチと映画鑑賞と蔦屋家電

近所の江戸前寿司

などなど。

こちらは仕事を夜朝でやっつけつつ、

正味6日であれこれ充実させた母シフトだった。

 

最終日は彼女を品川まで送って家に戻ったとたんに

目を開けていられなくなり、床に倒れて爆睡。

ぐったり。

はて。こんなに疲れるなんて…!?

普段同居してない高齢者(80歳)をアテンドしたんだもの

ぐったりして当然、そうは思ったがちょっと疲れすぎ。

で、この感じが何かに似てるな〜と思ったら、

海外旅行から帰った時のあの感じだった。

 

歩く速さ、周囲への用心、近道の検索、休める場所の確保。

母を連れて行く街は、

住み慣れた都内でも外国みたいなもんだったのだ。

たぶん母にとってそうだったから、

その気持ちが私にもシンクロしたのかもしれません。

 

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ソーシャルとは窮屈なもの

 

SNSというものをやり始めて20年くらいたつ。ことに驚く。

最初はtwitter、同時期にmixiも始めた。 

 

昔から何か書くのは好きで、

小6の時きれいな日記帳をもらったのをきっかけに

日々を綴るというより、詩や短いお話みたいなものや

先生への要望書(!)や男子振り向かせ作戦(!!)等

子供らしいくだらないことを書きなぐっていた。

もちろん人に見せるなんて想像もしていなかった

(親には読まれた)。

 

大人になってmixiを知ると、

それまでHPを作る発想さえなかったのに

その便利さ楽しさに感動し、

書いたものに反応があることがうれしくて、精力的に更新した。

SNS黎明期の牧歌的・刺激的な交流も楽しかったし、

そこからだんだん記名で他者の目を意識するようになった。

mixiは5〜6年続け、そのあとFBに移った。

 

いまSNSで「忖度」「炎上」は日常だが、

ソーシャル・ネットワーク・サービスとは

小学生の日記帳ではなくて大人社会なのだから、

「マナー」という名の無言の縛りがあるし、

人の動向や広告も目に入るので

マウンティングや乗っ取りも起きる。

当然利用には気を使うべきで、エネルギーも結構いるから

疲れて離れたくなる流れは自然だと思う。

こんな、FBやLINEへの嫌気から生まれた新しいSNSだって

誰かが作ったフォームでソーシャルなもの。

記名でやる以上、忖度からは逃れられないと思う。

 

個人HP「サバ缶ボッコ 」をつくったのには

いま思うとそんな気分もあった。

ここは仕事サイトに紐付けているだけで、

リンクの目的は仕事に興味を持ってくださった人に

ちょっとだけ人柄もお知らせできたらということ。

見に来る人も少ない。

せっかく書いてるんだからSNSと同期したら?

と言われたりもするが、

なるべく小学生の時の日記帳に近い気持ちで書けて

mixiで芽生えた自己顕示欲もちょっぴり満たされるなら

これぐらいがちょうどいいのかな〜 

…なんて、

1ヶ月も更新が止まってたブログを前にして思案なげ首。

 

※参考資料

2017年「公表データ」で見る主要SNSの利用者数と、年代別推移まとめ

 

 

 

花粉症人間の作文

 

ひどい花粉症である。

そろそろ飛散量のピークも越えたとは思うが、

と書いていて変換第一候補に「悲惨量」と出た。

こちらが正しいと思う。

 

まず鼻水だが、 

風邪の時とは様子がちがう鋭角的にサラサラの液で、

流れ落ちながら鼻の下、唇、あごを伝って

ぬぐおうとした手の甲にまで滴り、

まるで酸を含んでいるように皮膚をチリチリとただれさせる。

ティッシュを詰めてもかんでも止まらず、

かけたマスクは流れ続ける鼻水でいつのまにか

激しい雨に濡れた白いシャツのように

ぐっしょりと顔面に張りついて半透明となり、

息をするたびに膨らんだりしぼんだり。

もはやマスクの体をなしていない。

鼻の穴や唇がうっすら透けた顔は障子ごしのお化けのようで、

どんなにキレキレのプレゼンをしようと説得力ゼロ以下。

会議室に憐れみの空気が漂う。

 

次に目。

かゆいかゆいかゆいかゆい!!!…痛っ!

かきすぎて目尻を切ってしまう。

よく目玉を取り外して丸洗いしたいと言う人がいるが、

目も鼻も耳の穴も髪の根元も喉の奥も

全部全部全部全部かゆく、

目玉をなんとかするだけではとてもおさまらない。

いっそこのド頭ごと首から引っこ抜いて

「てぇ〜〜い!!」と叫んで地面に力いっぱい叩きつけ、

蹴り転がしてそのまま帰ってしまいたい。

その方がまだ、ムズムズ震えながら我慢の限界に達し

道行く人に突然「かゆいんだよ〜〜〜!」と叫んで

通報されるよりいいと思う。

 

この時期、全身をよじりながら青山通り

のたうち歩いているのは私だけではないと思う。

日本中の労働生産性が下がっていることは間違いない。

 

・・・

花粉症の辛さを書いて少しでも紛らわせようと

作文してみました(ヒマ人)。

お目々よごしなにとぞお許しください。

(写真は近所の公園。桜に花粉症がなくて本当によかった…)  

 

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勉強は買えばできる

 

あっという間に桜も散って、もう4月の半ば。

街は新生活にワクワクする若者たちでいっぱい。

 

そういえば以前書いた「健康管理能力検定」、

無事に合格できていた。

これは、受かっても「生活リズムアドバイザー(3級)」

「健康リズムカウンセラー(2級)」が名乗れるだけで

(微妙な言葉でグレード差が表現してあるw…)、

すぐ何かが変わるわけではない。

だがこれらを名乗れることよりも、前にも書いたが

学習した内容が仕事に直結していることで

今回の受験にはとても得した感がある。

 

思えば学生時代は勉強嫌いで、

授業でも定期試験でも努力というものをホントにしなかった

(うそぶく年齢もすぎ今ではちょっと後悔…)。

でも今回は自分でもどうかしたかと思うくらい

真面目にノートを作り、しっかり暗記した。

これはたぶん「自分でお金をだしている」せいではないか。

 

自慢にも何にもならないけれど、

苦学生だったためしがない恵まれた自分は

これまで与えられた環境下ではあまり努力してこなかった。

けれど、社会人として自活してから申し込んだ英語塾

(実は例の倒産騒ぎで授業料が戻って来なかったが)や

自分で先生を探して始めたアイリッシュフィドル

(楽器&月謝で車1台分ほど散財したが)は

どんなに仕事が忙しくて疲れていても死ぬ気で続けられた。

これはもちろん「必要」で「好き」だったせいもあるが

やっぱり「元手がかかっていたから」だと思う。

 

そこで今頃になって気づく。

父よ母よ、かけてくれた元手にまるで報いずごめんなさい…

というわけで、父はもうこちらにいないので

これからは母に「健康管理と生活リズム」を

アドバイスしていこうと思います。

 

受かってよかった〜!

 

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疲れても会っておく

 

社交の場が激増していると思う。

 

それはおそらくSNSのせいで。

仮想空間のやりとりでウマが合った気になれば、

短期間で知人レベルから親しい友人へ。

そのよしあしはともかく、

面白そうな勉強会や飲み会にしょっちゅう誘われるから、

ちょいちょい行ってたら忙しくもなるわけだ。

正直面倒に感じるときもある。

行って気疲れすることもあるし、時間もなくなるし

何やってんだ自分…と全SNSをやめたくなる。

そういう人は多いのではないかしら。

 

しかし最近は少し考えをあらためた。

いやあきらめた。

 

ホイホイ出てく八方美人な性格はおいといて、

そういうつきあいだって、永遠には続かない。

SNSはデジタル社会に残り続けるけど、

人間は生き物で肉体も感情もあるから、

それこそ上みたいな理由でSNSを離脱して

連絡が取れなくなることもあるし、

引っ越すし、老けるし、

肉体的に会いに行けない世界に

いってしまう人もいる。(現にいた)

 

つまりいつかは絶対に会えなくなる。

 

なので

お互い多少煩わしくても会ってしゃべっとこうよ。

と、私などは思います。

(写真は友人撮影。仲良しおばあちゃんの図)

 

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すべてのミズ・オリーヴ・キタリッジへ

 

三月一日だ。

そろそろ冬はちょっと後ろに置いてきた感。

本格的な春になる前に、この冬読んだ

噛みしめるとじんわり美味しい、

ドライフルーツみたいな連作短編をご紹介。

 

「オリーヴ・キタリッジの生活」。

米国メイン州の海沿いの街に暮らす女性数学教師と

周辺の住人がおりなす日常の物語。

人の暮らしは外から見えているままではなく、

誰しも心の奥に複雑な思い(大概は苦い思い)があることが、

淡々とした筆致で語られていく。

 

人のいい薬剤師の夫、ヘンリーを尻に敷きながら

言葉は苛烈、皮肉屋でがっしり大柄な中年女、オリーヴ。

そのとっつきにくい外面とは裏腹に

彼女の生活は豊かな感情と小さな傷に満ちて、

止まることなく流れていく。

 

8つのエピソード全部の主人公が彼女というわけではなく、

登場人物の高校時代の担任だったり

会話に名前が出てくるだけだったり

遠景にちょっと顔を出すだけだったりする。

近所に住む人たちには

献身的な若い薬剤師、失意のピアニスト、

愛情を受け取ってくれない息子とその嫁などが登場し、

人生が痛いこと、大切な人がいつかいなくなること、

それでも勝手に人は自分を消したりできないこと、などが綴られて

こちらの心にじわじわと繊細な根をのばしてくる。

 

最初の話では40代のオリーヴは話ごとに年を重ねていく。

その時間経過の中に描かれる

しみじみと苦い気持ちや時おり日が差すような瞬間は、

まるで自分が経験したようで、私は、

長い長い散歩をしているようだな〜と思った。

 

「老けたのか?老けたのだ。でもまだこの世を去る気はない」。

そう独白するオリーヴ。

その姿は孤独だが海岸通りの逆光線に照らされて眩しく、

平凡な毎日をしっかり歩きつづけられる幸福を

教えてくれていると思った。

 

大好きになった一冊です:) 

オリーヴ・キタリッジの生活/エリザベス・ストラウト著(ハヤカワepi文庫)

 

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ちょっと座らない?

 

仲間と「日本ベンチ協会」というコミュニティを

つくっています。

 

「ベンチ」は街や公園にあるあのベンチ。

きっかけは学生バンド結成並みのテンプレで、

2年ほど前に飲み屋で突然「ベンチって面白くない?」と

もりあがり(そんな話になった経緯は忘)、

その後何度か集まっているうちに今の形に。

旅先で撮ったベンチの写真を集めたり

椅子をつくる会社に突撃して話をききにいったり

電鉄の企画に相乗りしてベンチをかついで街歩きしたりと、

ゆる〜くとぎれとぎれに、活動中です。

 

ここで私のベンチ愛を。

ベンチって存在そのものがとても今で哲学的なのです。

 

1。ベンチは「途中の存在」

ベンチは、駅や公園やバス停など移動中の人にとって

スタートとゴールの間にある。

「ひと」休みで長居しない場合が多いし

そのベンチはあの時とこの時の「間」のような時空間になるし、

その時の自分はおそらく、公でも私でもない。

 

2。ベンチは「モードを変える」

座ると気分が変わって、怒っていた人は落ち着くし、

泣いてたあの子は泣き止むし、疲れた人は休まる。

ついでに視点が低くなって街の景色も違って見えるし、

近所パン屋さんのいい匂いがしたり風の音も聞こえるかも。

 

3。ベンチは「偶然をよぶ」

隣に恋人や友だちじゃなく、知らない人が座るかもしれない。

そこで「いい景色ですね〜」とか話してもいいし、

シャイな人は「隣にこないでオーラ」を出してもいい。

そこで何かが起きたり起きなかったりする。

猫や鳩が座ってる場合も多いけれど。

 

ベンチのそんなところが昨今の、

右だ左だ!男だ女だ!あんこだクリームだ!…と

なんでも白黒つけたがる世の中にちょっと足りない、

「どっちつかずでいいしどっちかに決めなくていいし

まぁぼーっとしていったらいいじゃない」という

メッセージを懐深く体現していると思う。

 

そんなわけで、

’ちょっと座らない?’

というスローガンを作りました。

前ばっかり見て速足で進んでいた人も、ちょっと座らない?

その話ゆっくり聞きたいから、ちょっと座らない?

このあと予定ないんだったら、ちょっと座らない?

いろいろあるけどまあちょっと座らない?

という呼びかけです。

以下のサイトに哲学とコンセプトも作文しています:) 

日本ベンチ協会(Nippon Bench Association)

 

今年中には社団法人化する話も出てるけど…

あくまでゆるゆるで活動しているわれわれでした:)

 

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