サバ缶とボッコちゃん

青魚と短編小説をこよなく愛するコピーライターです。 ブログタイトルは時々変わります。

10文字ホラー

 

「10文字ホラー」なるものを知った。

カヤックの氏田雄介さん企画による言葉遊びで、

先ごろ第2回目の受賞者が発表されて書籍にもなっているみたい。

 

声と骨だけ焼け残った

鏡に謝り続けている父

人権は売り切れました

花束が枯れない交差点

あの時殺された鶴です

みんな上手だ!

 

日頃文章が冗長すぎないか気にしている私

自分にも10文字で何か作れるかしら。

で、一個だけいま書いてみた。

 

ビンを這い上る黒ゴマ

 

…ううむ…ズボラがバレただけ…

 

 

 

短く、あいまいに、予想通りに?

 

最近、ボディコピーの文字数が減り続けている印象があります。

読んでもらうためになるべく少なく書く。

セオリーは前と変わらないけれど

以前に増して広告文は歓迎されなくなってきた感があり、

最近は、10年前の半分くらいでまとめる感じ。

 

特にサイトは、ひゅんひゅんスワイプされるスマホ

ストレスなく読まれるために。

でも「ストレスなく」は、馴らしすぎると

つるつるとひっかかりがなくなって、

競合の中でエッジを立てて記憶に残す、という

広告の実施意義と相反するので四苦八苦。

 

他にも最近変わってきた傾向として、

物事を言い切らない傾向が。

文章の断定をさける場合が多くなったような気がします。

もちろん自信ある商品特徴は言い切るけれど、

メリットやインサイトに寄り添う表現の際に

曖昧に「かもしれません」と弱めて

万が一の反感を過剰に回避していると感じることがある。

 

そしてもうひとつ…意表をつかないこと。

最近、ドラマや映画でも展開やネタバレを知ってから

鑑賞したい人が増えているときいたのだけど、

(参考記事)

https://news.goo.ne.jp/article/moneypost/life/moneypost-622683.html

予測のつく情報に安心する人が多くなっているのかな。

ワクワク未知の内容を楽しみにするより、

お金を払うなら結果が分かっている方がイイというか。

広告ごときに驚きや示唆はいらない…

そんな感情があるのかなと思ったりして。

なので、安全安心(二つつなげたこの言葉もやたら耳にします)な

誰もが受け入れられる言い回しを??

 

…ああ〜つまらない!

それでは説明書になってしまうよ。

正しく短い日本語文章、そこのみが仕事になるのは残念すぎる…

でも、お客さん(消費者)から

「説明書でいい」

「勝手にこちらの気持を代弁しないで」という意見がくる、と、

クライアントの方からきいたこともあります。

表現は10年ほど前より炎上しやすくなっているから?

 

…ちょっと露悪的に書きすぎたかも(笑)

でも、言葉は情緒をあらわすし、

人の柄が変わってきているとするなら

この先コピーも少しずつ姿を変えていくのだろうと思います。

 

でも、それでも、

考え抜いて心に届く言葉を使って行きたい。

これからも、私はコピーで驚き続けたいし、

気持ちよく驚いてもらいたいと思います。

 

 

ファストアタマ

 

先日「ファスト映画」なる言葉を知った。

既存の映画を10分程度に編集して

無断で説明の字幕や音声をつけたもので、

短時間でざっくり内容を知ることができる

ファストフードやファストファッションの「ファスト」の映画版。

YouTube等の配信サービスにあげて再生数を稼ぐという。

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へ〜と思っていたら、

作成していた人たちが著作権侵害書類送検された。 

その人たちは、

・埋もれていた映画を多くの人に注目させたし

・収入はyoutubeと折半なので違法ではない

と、業界のためむしろ良いことをしていた感覚だったとか。

利用側からも

・短時間でたくさんの映画を知ることができた

・前もって面白いかどうかわかって便利

・次はあの作品のファストお願いします

など肯定的な声も多かったという。

 

私は、映画は映画館で観て圧倒されたり

その後あれこれ話したり真意を想像するのが楽しいので

「観る前に話を知っておきたい」

「筋を知っていれば観たと言える」

という動機には全く共感できない。

とはいえ、こういう考えの人が増えるのも

無理ないご時世ではあると思う。

とにかく今は時間が足りないんだもの。

 

情報が溢れすぎ通信方法が増えすぎて、

仕事もプライベートも分かち難く、連絡は四六時中。

余暇もコンテンツ洪水で、寝る暇もなし。

 

たまには映画も観たいけど体力も時間の余裕もない〜

そんなところからの需要だったんだろう。

ただ気になるのは次の2点。

 

1/創り手軽視

ファスト映画は、人を喜ばせるアイデア尊い手間の

上澄みだけを掬っている。

そこにあるものの芯が抜けたまま手早く複製して、

簡単に金を稼ぐ行為はまるごとの盗み以上だと思う。

複製や盗用への「著作権」啓蒙だけではなく

「一から創作すること」への理解ももっと高められたらいいのに。

エンタメ業界ではないけれど、自分も

オリジナルな表現アイデアを作る仕事なので

複製・盗用横行には腹が立つし不安になる。

 

2/「面白くないと損」おためし消費感覚

映画館に2時間も座って面白くなかったら損、という声。

…う〜ん映画鑑賞って損得なのかしら。

確かに映画鑑賞も消費行動の一ではあるものの、

スジ内容以外にも場面の間や細部から滲むもの(むしろそっちが芯かも)を

じ〜わじわ数日かかって受け止めてこそ、

記憶に残って1900円払った価値になるというもの。

つまらない映画だったとしても、

「ひどかった〜」「自分ならこうする」なんて文句を言うことも含めて

楽しむのが体験なのではないか。

 

つまるところ、クリエイションにまで

「早く」「簡単に」「タダで(安く)」の加工を求め続けたら、

平たく言ってみんな脳みそがツルツルの「ファストアタマ」になって

心の健康、ひいては社会の健康が損なわれるのではないか。

 

と、私は心配になるのであります。

 

 

 


 

共感おばけ(©本谷有希子)

 

先日の午後、ラジオでライターの武田砂鉄氏と

劇作家の本谷有希子氏の対談を聴いていて、はっとした。

 

本谷氏の新作小説についての紹介からの流れで、

彼女曰く 

「何かものを創る際に『共感されるものを書こう』って

 してしまったら作り手として終わりだよね。

 (という話を以前武田さんとしましたよね、という流れ)

 つい、いいねやフォローをさせたくて発信してしまうけど、

 そこに捕まったら終わりだと思う。」

と。

 

さらに彼女はこうも言っていた。

「共感をしたい、って(いう内面の衝動を)”共感おばけ” と呼ぶ」

「私が最近めざしているのは、

 誰もいいねがつけられないものが尊いんじゃないか(ということ)。

 何か発信して、いいねゼロって逆に難しいよね」

 

自分の仕事、コピーライティングでは、

読んだ人からいかに多くの共感を得られるか、

いかに多くの人にその企業や商品に対して

「いいね」と思ってもらえるか、ということに腐心する。

そしてずっとそのための技術を磨いてきた。

もちろんそれは、

広告メッセージの制作にはクライアントを代弁して

広く多くの人に告げるミッションがあること、

その効果にギャランティが支払われていることから当然のことで、

結果少しでも世の中を驚かすことができたら!

と思って作文している。

しかしこれは、彼女が言っていることとは真逆だ。

  

なるべく「いいね」をもらわない、

できるだけ誰にも共感されない事柄を書く、なんて離れ業に、

そしてそれを野心とめざす彼女のスタンスに、

単純に感心してしまった。

 

作家にも「なるべくいいねが欲しい」と思っている人は多いだろうし、

コピーライターなんていいねほしがる文案屋さ、なんて

卑屈になる必要はないと思うけれど(謙虚でいる必要はある)。

いわゆる作家と呼ばれる人との発想法や解放され度の違い、

文章を懸命に編むということにおいて

コピーライティングが宿命的に負う「共感獲得必須」に

今さらながら気づかされたのでした。

 

(対談で話題にしていた本谷氏の新作こちら。回し者に非ず:)

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睥睨

 

突然ですが、熟語です。

睥睨(へいげい)。

意味:威圧するように周囲をにらむこと。

 とってもおどろおどろしい漢字の印象。

 

「睥(へい)」の方は、

こちらを卑しい目つきでにらむ?

いや「卑しい奴め!」とこちらを侮蔑するように?

 「睨(げい)」の方は、

少し調べると目へんの横の「兒」は

こ、に、じ、と読み、児童、子供のことだそうな。

子供を威圧するように「めっ!」とにらんだのか?

それとも子供のようにまっすぐな目で見たのか。

後者だとニュアンスがちょっと変わるけれど。

 

どちらの文字にも「横目で見る」という意味もあるそうな。

私は上からねめつけられるように感じるけれど。

いずれにせよ、佇まいというか

感情の存在感がすごく出ている熟語だと思う。

 

いきなりなぜ睥睨かと言うと、近所の道で

これを見かけたからなのです。

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ハイ、ひまわりです。

これを見たとたんに浮かんだ言葉が、

「睥睨」だったのでした。

 

なんとなく、息苦しい夏です。

 

 

 

 

あしたはもっとよくなる(『三体』)

 

SF『三体』読了。 

筋をものすごく大まかに言うと、

「太陽が3つある苛酷な星に住む三体人が、

移民先としてはるか彼方の地球に狙いをつける。

阻止しようとする地球人と三体人の攻防の中、

次第に宇宙の真理が明らかになっていく」 

という感じ。

文革期の中国から超未来の外宇宙まで、

桁外れに永い永い時間経過の中に

赤裸々な人間模様と宇宙物理学他が登場しまくる、

ハードSFであります。

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この話の面白いところはたくさんあって

ネットにレビューもたくさん投稿されていますが、

私が感心したのは「時間」についての考察。

生まれてから死ぬまでという

時間経過の中に自分も位置しているのに、

時間のことなんてこれまで深く考えたこともなかったけれど、

読んで少し思いを馳せました。

 

物語中、ある登場人物が述べる。 

”人類は、あしたはもっとよくなる、という信念を持つようになった。”

 「あしたはもっとよくなる」ことを信じるからこそ、

作中の人々は、

冷凍睡眠に入って未来で目覚めることや

何百年もの彼方に冬眠しながら向かうことを

怖がりもせず選択する。

今が辛いなら眠って未来を待つ、

それは超ポジティブな現実逃避ともいえるかもしれない

(作中ある文脈で「逃亡主義」という言葉が使われている)。

 

しかし現実世界は違います。

2021年のいま、たとえば30年前と比べたら

経済はよりよくなっているか?

人々の自由は増しているか?

紛争地は減ったか? 

自然環境と前より融和できているか?

より賢く思慮深く楽しく生きているか?

「あしたはもっとよくなる」なんて、

未来の幸福を信じきった無邪気にすぎる前提では?

 

  『三体』は、自分が知る限り最も未来まで

(ネタバレ:1890万年先!)描かれた小説だと思います。 

この先の時間経過の間に世の中はきっと

良くなったり悪くなったりするはずで、

数千万年も先の未来まで眠って起きられるなら、

たまたますばらしい時代が待っているかもしれない。

けれど、現実にはまだ何百年も眠れる冷凍睡眠は不可能だし、

人類なんてあとちょっとしか存在できないかもしれないし。

ならば、

今の体感時間で年をとり、寿命がきて臨終、この時間経過を

幸福にすごすことに力を注ぐべきなのだ。

「何千万年か先」じゃなくて「あした」が

もっとよくなるように。

そんなことを伝えているんじゃないか、

と思いました。

 

ゴリゴリのハードSFの箱に

子供みたいに無邪気でな希望をそっとパッケージ。

私にはそんな物語でした。 

 

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(作中の描写「まるでゴッホの『星月夜』のような…」という下りにちなんで)

目撃者ゼロの日のアリバイ

 

前々回書いた(あっもうひと月以上も前w)

映画館のご婦人もですが、

この映画は人がたくさん死にますか? - サバ缶とボッコちゃん

お年を召した方がよく(若い人よりも)街で

人に話しかけているところを見ます

これはなぜだろうかと思いました。

想像。

彼らは痕跡を残しているのではないか。

 

もしかしたら一人暮らしの方が多いのかもしれません。

朝から誰とも話さず過ぎて、もう夕方。

家事をして趣味の何かをして眠りについて、また朝。

明日も昨日と同じ一日かもしれず、気づけば

今日確かに私がここで生きていたことを

誰も知らない。

「私の目撃者、本日もゼロ」

そんな日が続いているのかもしれない。

 

基本一人で仕事をしている自分にも、

たまに一日中誰とも話さない日があります。

特に今はコロナ禍で、案件によっては

リモート打ち合わせさえなくメールで全て終了したりして。

いやふと我に返ると、不安になったりもします。

 

年配の方(女性が圧倒的に多いと思う)がなにくれとなく

人に話しかけるのはきっと、

存在証明(アリバイ作り)のようなもの。

無意識に世間を引っ掻いているのではないか。

ここにいた私を目撃してね、覚えておいてね、と。

 

もちろん、随分失礼な想像かもしれませんが、

そんな風に思った次第です。 

 

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